バイオリン

MBTIやエニアグラムに関する哲学的な考察及び、日々考えたことについて

MBTIの哲学的基礎づけ(4)知覚機能②NとSの意味

NとSの本質的な意味

 存在論には根本的に二つの様態、変化と不変があるという話を前回はしました。そこで、これからは変化や不変の成立にはそれぞれに二つの心理機能が必要となることを説明します。結論から言うと変化にはNeとSi、不変にはNiとSeが必要となります。

 NとSとは一言で言うなら、必然性と偶然性に対応します。必然性とはそうなること以外にはあり得ないということを意味し、偶然性とはたまたまそうであることを意味します。様相論理ではその間に必然性―可能性ー現実性ー偶然性というグラデーションがあるものと考えます。
 ここで、必然性と偶然性が知覚に対応しているのは可能性(一般性)と現実性(固有性)が言語上の述語と主語に対応し、その両辺にある概念は言語以前に言及する概念だと解釈できるからです。

 つまり必然性(そうあるしかない)―可能性(だったかもしれない)ー現実性(そうである)ー偶然性(たまたまこうなっている)と左辺に行くにしたがって、そうであるしかなくなり、右辺に行くにしたがってそうである必要がなくなっていきます。真ん中の二つの概念については判断機能の項で説明することにして、両辺に着目して話を進めていきたいと思います。

N
Nとは時間と空間の必然的な性質を示しており、それがそうあることがないということが想定できない何かを直観する機能です。なぜ想定できないかと言えば、知覚機能は境界線を引くことで反実可能性(もしも)を想定できないからです。というより、むしろそのように境界線を引いてもしこうではなかったら?と考えることのできない何かを知覚機能と天下り的に定義しています。
 例えば空間だったらその内部にあるAという事物とBという事物はそこに同時に存在しなければなりません。Aが先でBが後でくるということは空間的な見方をすればあり得ず、どちらも一挙にそこにあるしかないのです。もし、そこでAとBとの間に時間的な遷移を感じているならばそれはもはや時間の必然的な性質を直観していることになります。世界は不変か変化しているかのどちらであり、そのどちらもが極めて必然的でありえます。
 極めて必然的な性質の中にはこの世界が有限か無限か、可能的か現実的かなどありますがそれらは、存在論に属しているというよりは、言語を使用する際に要請される枠組みのようなものです。それ自体もなくてはならない区別ではありますが、空間と時間の不変性と変化よりは原始的ではないと考えられます。なぜなら我々が言語を用いて判断をする際に、○○は△△である、ということがありますが、その際につかうのが主語と述語であり、ここに固有性と一般性が含まれます。また有限と無限に関しては我々生命のことを指さすか、非生命のことを指さすかで異なりますが、これも普段よく使っている機能です。私とあなたを区別し、人類と宇宙を区別しています。
 よって必然的な性質のうち、変化と不変性のみが普段我々が言語を使用していて明らかではない価値観となるのです。知覚機能はより原始的な価値観であり、表出しにくいがゆえに根本的なその人の世界への態度を示していると考えられます。

S
 Sとは時空間の偶然的な側面を示しており、たまたまそうであるしかなく、かつそうでしかないものです。必然性との違いはそうなる以外はあり得なかったと直観できるかできないかの違いですが、いずれにしても必然性にしても偶然性にしても、その内部に構造や言語を挟み込める余地がなく、反実可能性を想定できないため、ある意味では宿命的ではあります。NにしてもSにしても宿命的な何かを知覚している。そのような言語でそうではなかったら?と表現することができない「それ」の中で、そうであるしかないと感じられるのがNですが、Sは本当にたまたまそうであるしかなかった、と感じられるものです。
 これは心の哲学でいうところの「クオリア」に該当します。または伝統的な哲学の用語でいうと表象に近いかもしれません。しかしこの二つの説明はどちらかというとSeの説明に近くはなりますが、イメージとしてはSとはクオリアのようなものです。対してSiはベルグソンのいう純粋持続や記憶に該当します。簡単に言うとSeが一瞬であるのに対して、Siはある一定の変容可能性をもった「幅」があります。しかし、根本的にどちらも言語的に境界線を内部に引くことができないため、そうでなかったら?と問うことは無効化されます。問うことができたとしたらそれはもはや知覚機能ではなく、判断機能になっています。
 話を戻すと、クオリアとは偶然的な知覚体験そのものを指す用語です。例えば目の前に赤いリンゴがあるとして、その赤いリンゴがなぜ”今現に感じているその赤さなのか”を説明することは原理的に不可能です。どこまで説明をさかのぼってもある波長の電磁波が視神経から視覚野にいって、言語野や運動野にいき、私は今赤い何かを感じているとその人物が発言することは全て客観的に記述することは可能です。しかし、それでもそこでその”赤さ”が説明できていないのです。これは意識のハードプロブレムと呼ばれる心の哲学の有名な問題で、そこで話題になっているのが偶然性Sなのです。