バイオリン

MBTIやエニアグラムに関する哲学的な考察及び、日々考えたことについて

MBTIの哲学的基礎づけ(6)知覚機能④SiSe

SiとSe

 前回は必然性に関するNiとNeにフォーカスを絞って議論してきました。今回はSiとSeに関して記述していきます。下に添付した知覚機能図を見ていただけると議論がわかりやすいかと思います。
 SiとSeはどちらも偶然性に関連する知覚機能であり、そうである理由がなく、かつそうでなかったら?と想定さえできない知覚体験を指します。もしそこで想定できてしまっているなら、判断機能を使って言語化をしていると考えられます。ここで、SeはNiに対応しており、SiはNeに対応しています。これはNiSeが空間で、NeSiが時間であることに関連付いています。
 そこで前回話したように空間に関する偶然性がSeで伝統的には表象もしくは心の哲学ではクオリアと呼び、それは映画のフィルムの一コマのように分割不可能な、一瞬を示します。一瞬とは何でしょうか?それは幅がないという意味です。写真や映画の一コマは破り去ることや水に浸してにじませることは可能ですが、その本質からその瞬間そのものを変容させることはできません。破り去っても、それがまたつながればもとの写真の一瞬そのものとなるのです。
 対してSiはベルグソンの言う純粋持続に対応しています。純粋持続とはある幅をもった一連の知覚体験の束のことで、もっともわかりやすいのが音楽のメロディーでしょう。メロディーは常に今の音だけを聞いて聞こえるものではありありません。今に過去が重複的に畳み込まれていることによってはじめてメロディーが聞こえるのです。音というのは不思議なもので、一瞬を切り取って、その集積を映画のフィルムのように見てもメロディの全体は聞こえてきません。むしろ一瞬というのは無時間を意味しているため、そもそも音が鳴りません。このことから音には時間的な持続とある幅が絶対的に不可欠だということが理解できると思います。しかし、そのように聞いている音楽のメロディの幅それ自体は常にとらえようとすると逃れ去ってしまう川の流れのようです。その幅それ自体がSiでありそれを分割しようとしても、すでに純粋な持続としてある有限な幅を持ってしまっている。そのような意味でベルグソンは純粋持続という概念を考え出しました。
 また、純粋持続内部にもしも?はあり得ません。音楽を聴いているその持続と記憶にもしもを挟み込むことは聞くということの一時的な純粋知覚そのものにおいては不可能であるからです。よって、その純粋持続に言語的な境界線を内部に引くことはできません。しかし、にもかかわらずSeの一瞬の経験、クオリアが修正不可能なのに対して、Siは変容することが可能です。これはNeの作用が働いているからだと考えます。
 Neは前回も説明したように、あらゆるものに対してある種「否」と突きつける機能であり、あらゆるものに対して変容を、流れを、迫る機能だと言えます。Siは原理的に幅があり、その幅のなかに変容可能性がある限りNeという時間性そのものがSi内部にほとんど定義として入り込んでいることは明確でしょう。幅=変容可能性はそれすなわちNeであるからです。
 よってNeSiは音楽に親和性が高く、NiSeは視覚的な経験に親和性が高いことが見て取れると思います。


知覚機能図

   必然性  偶然性
変化  Ne            Si

不変     Ni             Se