バイオリン

MBTIやエニアグラムに関する哲学的な考察及び、日々考えたことについて

MBTIの哲学的基礎づけ(8)知覚機能⑥NiSeNeSi

NiSe
 NiSeの世界観は比喩的に言うと、ある形の崩れない抽象的な箱があって、その箱内部に無数の写真が乱れておいてあるような世界観です。この形の崩れない抽象的な箱がNiに相当しており、無数の写真がSeに対応しています。普段我々は目の前の光景を偶然的なショットとして知覚しているわけですが、そのショットには瞬間という観念が理念的には存在しうると考えられます。例えば理念的な点は実際には目に見ることは不可能でも、そのような存在を仮定することはできます。そのような一瞬や点のような編集不可能でそれ以上壊すことの原理的にできない純粋な知覚体験が無数に寄り集まって空間的な世界を形作っています。
 また、Seでとらえた瞬間とその一瞬前の瞬間は原理的には何の関係性もなく、脈絡もなく途切れているはずです。なぜならば、瞬間には部分がないため、その前後関係を確定する情報を持ちえないためです。それができるのは幅が存在するSiのみです。Siには現在と連続した過去の記憶や持続が複層的に埋め込まれています。しかしSeは一瞬で、現在のみなので、ある種すべての無数の瞬間と空間を通して関係しあっているという世界観にもなります。これは、ライプニッツモナド論の世界に近く、無数のモナド=写真がそれぞれ大きな箱=絶対神を通じてすべてがつながりあい、そのなかに収まっているという哲学的な世界観です。前後関係はSeにありませんが、「全ての瞬間」との関係性はSeにはあるのです。
 また別の比喩であらわすと写真展がいいかもしれません。様々な写真が無数に飾られているその写真展はある写真家の写真展です。しかし、その写真家は匿名で誰にも姿を公表しません。しかし、その写真家がいなければこれらすべての写真は存在さえしないものです。このように一つの写真=Seには映ってはいないけれども絶対にそこに必要とされる存在=写真家が神であり、それこそ箱そのものなのです。
 上記のような説明だとそこにないものといいましたが、基本的には絶対無の観念をそこでは指しています。絶対無とはあらゆるものの否定であり、神様は全ての属性を持つ万能な存在なんだから、絶対無とはかけ離れていると思うかもしれませんが、絶対無というのは何の制約もないという意味でもあり、そこに万能性を見出すことで絶対無=絶対有=神と成り得ることになります。
 このようにNiSeの世界観には基本的には一神教的な神もしくは絶対的な空間が存在しており、それがあるからこそすべての物事は最終的にはどこかで定まっていて、不動なはずだという決定論的な世界観にもなります。空間の本質は「すべてを一挙に見ることができる」だからです。
 基本的にNiSeの世界観に合致する社会システムは西洋であり、これはキリスト教啓蒙主義や科学の発展とも関連しているでしょう。おおざっぱに言ってしまえばキリスト教も科学もある唯一神に向かって漸近するのだという世界観を持っています。これは資本主義もそうですし、共産主義もそうです。基本的には全てが何らかの究極的な理想にめがけて邁進するもしくは啓示を受けるという形の精神性となっています。

NeSi
 NeSiの世界観は比喩的にいうと、川の流れ=Neと石に一時的にせき止められる滞留=持続=記憶=Siに対応しています。西洋の語彙ではとらえることが難しい概念ですが、Neがデリダ差延、Siがベルグソンの純粋持続に対応していると考えられます。
 ここでデリダ差延とは同一性を常にずれ続けていく、そのずれ行く動きそのもののことを言います。これは仏教における空とも近い概念であると感じられます。Siは記憶であり、ある幅を持った何かです。しかしその幅にもしもはあり得ません。なんとなくですが、をかしの概念がSiであり、あわれの概念がNeに相当するものだと感じます。
 NiSeのように唯一神がいるのではなく、多神教的もしくは無常的な世界観になるのは、空間的、視覚的な世界観ではなく聴覚的な世界に住んでいるからだと推察されます。空間的な世界に住んでいると、あらゆるものを同じ場所に置き、それらをすべて一度に見るという唯一神のなせる業のようなことが錯覚でさえ直観できますが、聴覚的な世界に住んでいる場合は、現在に過去や未来が複層的に絡みこんでいて、あらゆるものを同じ場所に置くということが原理的にできません。現在で止めようとしても止めることができない、そして過去や未来の音がメロディとして流れまた消えていってしまう。これが音の本質であり、NeSiが時間的、聴覚的世界に住んでいると言及する理由です。よって、ある種経験主義的な様相を強く持ち、絶対不変なものなんてないということ、それだけが真実だと考える傾向が強くなるでしょう。