バイオリン

MBTIやエニアグラムに関する哲学的な考察及び、日々考えたことについて

δクアドラの世界認識

δクアドラ=NeSi×FiTeの世界観は一言でいうと、アニミズムとなります。この世界全体を変化するものとして直感し、かつ物質的なこの現実を基盤として可能世界に先行させます。

γクアドラの世界観が永劫回帰するループ映画フィルムだとしたら、δクアドラは変容し続ける現実を捉え続け、世界そのものを映し続けるリアルタイムの映画のようなものでしょうか。

また、アニミズム=汎心論は汎神論=ギリシャ神話的=γクアドラ的とは異なります。ギリシャ神話の世界観はループする円環的な時間構造がその本質にあり、その各場面で様々な神が現れているというような構造となっているのですが、アニミズムはもっと原始的であり、神ではなく、心が自然に宿っていると考えることでしょう。アニミズムは神話が生まれるより以前、紀元前5000年前以上から、つまりホモサピエンスが誕生したときから既に存在すると考えます。

 

心が自然に宿っているという考え方は老荘思想神道にも通じる世界観であり、基本的には仏教的ならせん構造を時間的な推移は描きます。私もあなたも動物も自然も心を多かれ少なかれ種類は異なれど持っており、それらが輪廻転生していく世界観です。

 

輪廻転生を仏教は本質的に苦ととらえそこからの解脱により悟りを得ますが、δクアドラの世界認識は、現世利益を重んじます。しかし、永劫回帰のように一回限りの人生であるという感覚は少なく、自分自身も変容していき、子孫にその心が移っていくというような直観をしているため、言動にγクアドラの決意のような熱さがみられるというよりは「逡巡やためらい」を感じさせることが多いように感じます。

 

その逡巡やためらいはどのクアドラでもあり得ますが、特にNeSiをもつタイプδαでは本質的です。世界を本質的にらせん構造でとらえたり、変化するものととらえる時空認識においては、世界は「変化している」と断言できるものでさえありません。そこにあるのは困惑、や迷いであり、そしてそれこそが弱さの哲学とでもいうような東洋的な神髄をあらわしているとも言えます。

余談ですがアニメーションの本質もδクアドラにあると考えます。アニメーションとはもともと西洋では落書き的な「不真面目なもの」から生まれ、東洋では絵巻物にその精神が見て取れます。不真面目なものとはそれすなわち西洋的な真面目さからみた評価であるため、一般的な意味合いではありません。その本質は「世界を不定」とみる態度のことです。アニメーションの語源はアニミズムから来ていて、一回限りの、しかし作者が違えば変容も可能なキャラクター=固有(FiTe)な主体を主軸にしたメディアといえると思います。