バイオリン

MBTIやエニアグラムに関する哲学的な考察及び、日々考えたことについて

クアドラの数学的な比喩

〇公理と定理

数学には公理定理というものがあります。公理とは前提となる命題と使える推論規則の組であり、定理とは前提となる命題に推論規則を用いて展開される命題のことを指します。ちなみに公理はTiFe(一般名詞的)であり、定理はFiTe(固有名詞的)と対応します。

そこで比喩を展開するために公理をシンボルと、定理をイメージに対応付けてみます。
シンボルは言語でありりんごとりんごでないものを区別することを可能にします。
イメージは言語が指し示す🍎そのものを指示しており、イメージが出てきたらりんごだとわかり、りんごでないイメージが出てきても「りんごではない」とイメージすることはできません。

ここにシンボルイメージの非対称性があります。
言語はAとAの否定どちらも記述することを可能にしますが、イメージはAが来た時にしかAと言えない「列挙的」な性質を持ちます。列挙的というのはトランプカードを列挙する際に何が来るかを事前に予測できず、列挙されたものは列挙したときにしか「列挙されたものだ=定理」と言えない性質を形容するものです。

公理は公理じゃない命題がきたら、つぶさにその命題が公理に含まれるか調べることで「公理ではない」とわかります。
しかし、定理は公理からの演繹を「列挙」してはじめて「定理」だとわかります。よってある命題が定理か?定理じゃないか?は「事前に判定できない」ため、「定理は列挙的である」と言えます。


〇βγクアドラ(NiSe)


この世界はシンボルとイメージで成立していますが、その二つのうちどちらかを「世界の全て」であると直観するかによってβとγクアドラが分かれます。

ここでβクアドラは公理と定理のうち、「公理」がこの世界の全てであり、「定理は本質的には存在しない」と考えます。
つまりβクアドラはこの世界は全てシンボル=言語=TiFeによって記述できるはずだという信念を持つわけです。

一方でγクアドラは「定理」がこの世界の全てであり、「公理は本質的には存在しない」と考えます。
つまりγクアドラはこの世界は全てイメージ=固有名詞的な具体物=現実=FiTeによって成立しており、言語は副次的・ツール的なものに過ぎないと考えます。

ここでβγクアドラ双方とも実は「矛盾」している結論を導いています。
なぜなら、ゲーデル不完全性定理から
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①βクアドラ
この世界の全てを証明すること。(この世界の全てを証明出来たらその公理と推論規則が本質的に世界の全てであり定理は存在しないといえます。これは例えば、10101010101010101010を定理として持つ世界は「10を10回繰り返す」という公理があれば再現可能だからです。これを「コルモゴロフ複雑性」とも言います(最後でちょっと紹介する概念です)。)
②γクアドラ
この世界の全てを証明できないと形式的に導き出すこと。(全ての命題が残らず証明できないならば、証明という概念が「厳密には」存在せず、「公理から何かを導く」ということもなく、この世界の全てを説明する公理がそもそも存在しないといえます)
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①②双方ができないとわかるからです。

数学が無矛盾ならばゲーデル命題、例えば「この文は証明できない」という文は証明も反証もできません。しかし、それを証明するのがγクアドラで、反証するのがβクアドラです。

γクアドラがゲーデル命題を形式的に証明すると②が成立し、βクアドラが反証すると①が成立します。

しかし、ゲーデル命題を証明もしくは反証できるとしたらその体系は矛盾します。よってβクアドラとγクアドラの世界観の根本は「矛盾」で成立していると言えるのです。

また「矛盾」からは何でも導けます。

よってβクアドラは矛盾から「すべて」を導きます。この「すべて」は可能世界のすべてというニュアンスであり、一般名詞的な様相を呈します。
βクアドラは全てを認識できる、そのためには現実を超えたすべての可能世界を認める必要があり、それはある意味一神教的な神を肯定する、「肯定神学」となるでしょう。
肯定神学は公理=言語=シンボル=TiFe=可能世界のみがこの世界の全てであるという主張です。

一方で、γクアドラは「何でも導ける、それが現実ならば」という現実の決定的な推移を決断する態度になります。この「何でも導ける」というのは、「現実しか存在せず、それがすべてだ」という意味で、可能世界さえも現実の中でしか思考できないことを意味します。これは神=言語は存在せず=否定し、定理=固有名詞=イメージ=FiTe=現実世界のみがあり、現実のみが世界の全てであるのだという「否定神学」となるでしょう。

これらの結論から、矛盾とはNiSeのことを本質的には指します。そして肯定神学も否定神学も西洋的な精神ですが、どちらも本質的には矛盾を内包する精神といえるでしょう。

逆に、NeSiは無矛盾な世界となるのです。世界に対する全体性への欲望が非全体性へ解消されている東洋的な精神は矛盾を本質的に内包しません。

これは直観的には
・NiSeの場合は異なる主張を一つの無時間な場(空間)に並列させるため矛盾が起こる。
・NeSiの場合は異なる主張を時系列的な契機(時間)のなかで直列させるため矛盾が起こらない。
と理解できます。

〇αδクアドラ(NeSi)

αクアドラ=NeSi×TiFeは世界に公理=シンボルと定理=イメージが存在することを認めたうえで、それら二つを時間的契機の中で両立(NiSeはどちらか一方しか認めませんでした。)させます。

 

ここでTiFeはシンボルへのベクトルを強化する方向に働きます。よってαクアドラは世界を公理化し続けるベクトルを意識する精神構造に対応することになります。

またδクアドラ=NeSi×FiTeも同様に公理と定理の存在を認めたうえで、定理の導出方向に意識を働かせる精神構造に対応することになります。

 

ここで公理とは可能性のことであり、定理とは現実性のことです。

公理に含まれる文字列含まれない文字列は判別ができるため、可能性を想像することが可能です。もしも、Aという公理じゃなくAの否定という公理だったら?というようにです。

しかし定理は列挙し続けることでしか定理を判別できません。これは現実が現実であるのがまさに「現実だからでしかない」ことと対応しています。

よってこのアナロジーを使えば、αクアドラは世界を公理化し続けることで、想像できる可能性を増やします。それは逆を言えば世界の分解能が上がるということで、世界そのもののエントロピーを下げる役割を持っているということです。進化論的にいうと世界に「適応」しているともいえるでしょう。

δクアドラは公理から定理=現実を導出し続けることで、可能性ではなく「現実」にフォーカスします。現実にフォーカスすると可能性は忘却され、世界そのもののエントロピーが増え、予期しないエラーにより淘汰圧を受ける可能性が高まります。進化論的にいうと「忘却」を受ける精神ともいえるかもしれません。しかし、この忘却は生存戦略もしくは世界認識を一新・更新するのには必要不可欠です。

〇複雑性とエントロピー

ここで分解能が上がるとエントロピーが下がる、エントロピーが上がると可能性は忘却されるといってきました。

これは正確にいうと、環境の複雑性=エントロピーを下げると、その分、分解能=システムの複雑性が上がるという補完関係にあるということです。
ここでは環境に対しているのはシステムです。

これはマクスウェルの悪魔という思考実験を説明するために導入される代表的な考え方です。
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マクスウェルの悪魔では悪魔=システムそのものの記憶容量に対して複雑性を導入することで、環境のエントロピーが下がっても
システムの複雑性が上がるため、全体としてのエントロピー増大測には反しないというパラドックスの解決方法になっています。
また、システムの複雑性を下げる(ある意味での記憶の忘却)と環境へ「熱」が放散され、環境のエントロピーが上がるという関係もあります。
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このようにシステムの複雑性と環境のエントロピーというのがある意味で補完的な関係になっているということが示唆されます。

これは公理と定理の関係がシステムの複雑性とエントロピーに対応し、システムの複雑性が上がることが世界への識別性の増加=可能世界の増加=TiFe的な判断の増加を意味し、

エントロピーが上がることがシステムの複雑性が下がり、世界への識別性の減少=可能世界の減少=記憶の忘却=現実性、リアリティの増加=FiTe的な判断の増加を意味すると考えられます。

TiFeは本質的には可能世界を広げ、FiTeは本質的にその広げ方を狭めることで新たなTiFeの可能世界の広げ方を開拓するという、進化の適応とその適応能力の忘却=淘汰に対応することになると考えられます。

進化の適応と淘汰、忘却は本質的に「時間的な概念」なのでそれらはNeSiをもつα、δクアドラの世界観となるのでしょう。

〇βγクアドラの別の比喩
ここまでの概念を使って別の比喩を行います。

βクアドラは公理のみの世界でした。すなわちエントロピーはゼロということです。これは完全に言語によって秩序化された世界という比喩が使えるでしょう。エントロピーがゼロということはある意味で世界から新規の情報を得ることがないため情報量もゼロです。情報量とはここでは珍しさ、を示す尺度です。エントロピーゼロ、情報量ゼロの世界はある意味で完全なる自明な世界=トートロジーの世界を意味するでしょう。

γクアドラは定理のみの世界でした。すなわち公理がゼロなので相対的にエントロピーは無限大ということです。これは完全にカオスな世界、何が起こるがわからない世界、において偶然「この現実」であるという状態をよく表していると考えられます。また無限の可能性から「この現実」であるという状態は実質情報量は無限大です。情報量が無限大というのは「もっともあり得ないことが起こる」ということです。あり得ないことの最北は「矛盾」でしょう。もちろん本質的にβクアドラも矛盾しているのですが、矛盾と完全なるトートロジーは表裏一体ということだと考えられます。

γクアドラの代表格であるニーチェギリシャ的世界を模倣しました。そしてギリシャ的世界の本質は宮台真司によるとカオス=無秩序を前提としているというところとも符合していると思います。


〇コルモゴロフ複雑性と論理深度

ざっくりシステムの複雑性とエントロピーについて説明してきましたが、これは正確に言うと「コルモゴロフ複雑性」と「論理深度」という概念に数学的(情報理論的)には対応していると考えられます。

ここではざっくりとした説明にとどめますが、コルモゴロフ複雑性とはある定理を導くための最小のプログラム=公理のサイズのことです。

論理深度とはそのプログラムがある定理を導くために要するステップ数のことを指します。

直観的には例えば10101010101010101010を出力する公理の候補として「10を10回出力せよ」があげられます。イメージとしてはコルモゴロフ複雑性とはここでいうところの「10を10回出力せよ」の文字数です。そして実際にそれを出力するまでに要するプログラムの中間ステップ数を論理深度と呼んでいるのです。

そしてコルモゴロフ複雑性を大きくすれば、論理深度は小さくて済みます。なぜなら出力するまでの中間ステップ数すらもプログラムの中=公理として解釈してしまえば、論理深度=中間ステップ数は小さくなるからです。逆に公理の大きさを小さくすると論理深度は大きくなる傾向にあります。


これはシステムの複雑性とエントロピーが反比例のような関係になっているのとアナロジーとして対応しているでしょう。

よってもっと厳密にはコルモゴロフ複雑性(=公理)と論理深度(=定理)という概念によってクアドラを基礎づけることができると考えていますが、ここでは直観的な理解を主軸にしています。