バイオリン

MBTIやエニアグラムに関する哲学的な考察及び、日々考えたことについて

αクアドラの世界認識

 αクアドラ=FeTi×NeSi=一般性×変化となっており、この世界認識に対応している代表的な宗教は仏教となるでしょう。また西洋哲学で言うとジャックデリダエクリチュール論にも近いと感じています。

 αクアドラの存在論的な立場としてはこの世界を本質的に変化し続けているものと直観しています。この立場は東洋一般の立場に近く、また西洋哲学でいうところの現代思想に近いものになっていきます。基本的には西洋哲学やキリスト教的な世界観は不変性を直観していますが、東洋はあらゆるものに対して変化を直観します。その結果仏教でいうところの諸行無常、あらゆるものは留まることを知らないため、世界に実体はなくすべては関係性にすぎないという観点も出てくるでしょう。

 αクアドラの認識論的な立場としてはこの世界を本質的に数理や概念としてのみとらえており、固有名を持つもの(自我)や物理的なこの世界は概念から派生したものであり、本質的には数学というイデアが自我や物質的なものを表象として生み出しているにすぎないと理解します。これは自我や今世=この物理的宇宙に対しては否定的になる傾向を持つことにつながるでしょう。色即是空となるのです。

 ちなみに数学と申しましたが、数学を実在視する数学的実在論とは仏教は違うことに注意しなければなりません。数学的実在論はどちらかというとβクアドラの世界観に近くなりますが、αクアドラの場合は数学の開かれたその解釈の開放性に重きを置いており、その解釈が一意に定まらないそのフラクタル的な基盤のなさを空と表現するのです。フラクタルとはどんなに拡大してもその部分が全体と相似となる図形のことであり、どこまで原因や結果を遡行もしくは予測しても全体性を認識できず、全体が部分になってしまい、部分が全体になってしまうという観点が含まれています。よって、このような前世の写し鏡のようになった来世を輪廻転生し続けることになってしまうのです。

 αクアドラは輪廻転生を完結した円環構造の中ではとらえません。むしろ円として閉じてしまった場合、それは不変性を帯びることになるので、あくまで円として完結する世界把握ではなく、始点と終点がずれて螺旋をまくような構造を想定するでしょう。ちなみに、輪廻転生を円環構造に焼き直したのがニーチェであり、彼はγクアドラで不変性=NiSeを保持していると考えられます。

 最終的にはこのような螺旋構造の輪廻を否定的にαクアドラはみています。その本質はFeTiという心理機能が自我やこの私といった固有名を理解しないからであり、解脱によってこの苦しい物理的表象の世界から空を理解しようとするでしょう。空というのは神の否定で得られるカオスや絶対無ではないことに注意を要します。それは否定神学と呼ばれるものに近く、神を否定することそのものが神の無意識的な肯定を意味してしまいます。空はそもそも神か神がいないかという二項対立以前であり、その間にある観念です。
 αクアドラはこのような二項対立以前もしくは間というものを直観し、二項対立という空間的な場における操作それ自体を変化もしくは溶融させるその動きそのものの中に本質の不在を直観するでしょう。