バイオリン

MBTIやエニアグラムに関する哲学的な考察及び、日々考えたことについて

MBTIの哲学的基礎づけ(3)知覚機能①深堀

知覚機能について深堀

 知覚機能について、さらに深堀します。知覚機能は言語化以前の構造のない存在そのものに関する心理機能だと説明しました。ここで、存在そのものに対して取りうる態度は大きく分けて2つあります。それはあらかじめいうと、存在そのものは不変であるという立場=NiSeと、変化するという立場=NeSiの二種類です。

 古来からある二分法で、ギリシャ哲学のパルメニデスは世界の変化は錯覚であり、その裏には不変の実在が存在すると考え、その一方でヘラクレイトスは万物は流転し、一切不変なものはありえないと説きました。また、大きな目線で見ると西洋哲学やキリスト教は不変の実在があると考える傾向にあるのに対して、東洋思想では諸行無常を説く傾向にあります。


存在=知覚的と存在者=判断的の違い

 存在とはあらゆる言語的な内部構造に回収されえない何かであり、存在者と存在は区別されます。伝統的に存在者とはある種言語的であり、具体的な何かとその属性に関する言及の束で存在者は成立しています。言語的とは主語が述語に包摂されるという関係性の命題の網であり、これは判断機能に該当します。

 そして、その命題の網の裏や根底をどのような様態で支えているか?という言語のある意味では外の条件について考えること、つまり言語的な行為の外=条件について直観、感覚し、考えようと試みるもの(それが可能か否かは脇に置き)が存在論=知覚的なものに対応するということになります。
 

変化と不変が存在論になる理由

 変化と不変という概念は、時間と空間という概念に密接に絡み合っています。不変というのは、ある種世界の裏側に不動の箱のようなもの=空間的なものを考えて、永遠とすることで、自己同一性A=Aに対応します。また変化というのはあらゆるものがA(現在)≠A(過去)となり、自己同一性を保てず、比喩的に言うと流体的で、箱のような不同なものを措定しない価値観となります。

 これらはある種、言語間の関係性ではなく、その根本的な言語そのものの基盤や変容性に関して、言及しています。例えばこれはペンですといったときに、これという主語とペンという属性に関して一対一対応が不変的に保たれると考えるのが不変、その一対一対応が場合によっては崩れる可能性があると考えるのが変化に対応します。
 
 このような言語の対応関係以前の価値観を言語そのものを用いて表現することは、自己言及性の問題から不可能です。どのような言語的な主張を行っても、それは言語内部の網にあるのであって、原理的にその裏にある存在そのものの様態が不変なのか変化なのかを決定することができません。
 
 強調していうならば、AはBであるといったときに、本当にAはBと対応し続けるのか、または本当はその対応関係は崩れる可能性があるのか、は言語化不可能です。ゆえに、言語で表出するとしても変化と不変に関するものは二次的なものとならざるを得ません。

 このような理由から変化と不変という概念は存在論に属することが確認できると思います。また、東洋の中と西洋の中で細かい違いはあれど、その二つの間で大きな価値観の相違があるのも、このように存在論という極めて原始的なレベルでの世界把握の差異が原因となって表れているものと考えていいでしょう。
 
 このように存在の様態についてどのように考えるかという立場はその人の人生哲学や世界観に直結します。