バイオリン

MBTIやエニアグラムに関する哲学的な考察及び、日々考えたことについて

MBTIの哲学的基礎づけ(5)知覚機能③NiNe

NiとNe
 
 前回はNとSについて差異を確認したのでNiNeについて記述します。
 
 以下に示す知覚機能図を参照しながら見ていただけるとわかりやすいでしょう。必然性には二種類の概念があり、NeとNiに対応しています。極めて原理原則論的に考えると、何かある存在Aがあったとしたら、その否定である¬Aが不可避的に出現します。

 これはヘーゲルのテーゼ・アンチテーゼと同様です。また極めて一般的な話として、Aと¬Aが対立した場合、それを俯瞰する視野Bに統合されます。これはヘーゲルの用語でいうジンテーゼに該当します。

 このとき、Aがあったらその否定の¬Aを生み出す作用そのものがNeとなります。また、テーゼとアンチテーゼを統合する視点で常に見る心理機能がNiとなります。

 また、ジンテーゼ自体も別の視点により相対化されるため、このNeとNiの駆動はどちらが終点ということはなく、どちらも極めて「必然的」な機能となります。それは弁証法そのものの駆動が極めて必然的な動きだとヘーゲルが直観している通りです。

 よってNeは常に外部へ外部へあらゆるものを流動させる外部=他者そのものを必然性と直観します。そのため極めて時間的な流れそのものに対して敏感になりやすい心理機能で、変化そのものを肯定的にとらえることになります。

 しかし、Niは常に外部を自己の同一性に回収し続けるため、テーゼとアンチテーゼを上から俯瞰する絶対的な視点を維持、保持し続けます。その世界観は流動的な時間感覚のあるものというよりは、非時間的で静止した空間的な世界観になじみやすいでしょう。

 総括するとNはこの世界の存在そのものの様態に関する変化と不変を必然的に直観する機能と言えるでしょう。そして、変化の必然的直観に対応するのがNeであり、自己同一性の外へ、または自己に対する他者へ、テーゼに対するアンチテーゼに変化しようとする動きそのものの必然性に合致しています。また、Niは不変の必然的直観に対応し、空間的であり、自己同一性に親和性を強く持つことになります。


知覚機能図

   必然性  偶然性
変化  Ne            Si

不変     Ni             Se

MBTIの哲学的基礎づけ(4)知覚機能②NとSの意味

NとSの本質的な意味

 存在論には根本的に二つの様態、変化と不変があるという話を前回はしました。そこで、これからは変化や不変の成立にはそれぞれに二つの心理機能が必要となることを説明します。結論から言うと変化にはNeとSi、不変にはNiとSeが必要となります。

 NとSとは一言で言うなら、必然性と偶然性に対応します。必然性とはそうなること以外にはあり得ないということを意味し、偶然性とはたまたまそうであることを意味します。様相論理ではその間に必然性―可能性ー現実性ー偶然性というグラデーションがあるものと考えます。
 ここで、必然性と偶然性が知覚に対応しているのは可能性(一般性)と現実性(固有性)が言語上の述語と主語に対応し、その両辺にある概念は言語以前に言及する概念だと解釈できるからです。

 つまり必然性(そうあるしかない)―可能性(だったかもしれない)ー現実性(そうである)ー偶然性(たまたまこうなっている)と左辺に行くにしたがって、そうであるしかなくなり、右辺に行くにしたがってそうである必要がなくなっていきます。真ん中の二つの概念については判断機能の項で説明することにして、両辺に着目して話を進めていきたいと思います。

N
Nとは時間と空間の必然的な性質を示しており、それがそうあることがないということが想定できない何かを直観する機能です。なぜ想定できないかと言えば、知覚機能は境界線を引くことで反実可能性(もしも)を想定できないからです。というより、むしろそのように境界線を引いてもしこうではなかったら?と考えることのできない何かを知覚機能と天下り的に定義しています。
 例えば空間だったらその内部にあるAという事物とBという事物はそこに同時に存在しなければなりません。Aが先でBが後でくるということは空間的な見方をすればあり得ず、どちらも一挙にそこにあるしかないのです。もし、そこでAとBとの間に時間的な遷移を感じているならばそれはもはや時間の必然的な性質を直観していることになります。世界は不変か変化しているかのどちらであり、そのどちらもが極めて必然的でありえます。
 極めて必然的な性質の中にはこの世界が有限か無限か、可能的か現実的かなどありますがそれらは、存在論に属しているというよりは、言語を使用する際に要請される枠組みのようなものです。それ自体もなくてはならない区別ではありますが、空間と時間の不変性と変化よりは原始的ではないと考えられます。なぜなら我々が言語を用いて判断をする際に、○○は△△である、ということがありますが、その際につかうのが主語と述語であり、ここに固有性と一般性が含まれます。また有限と無限に関しては我々生命のことを指さすか、非生命のことを指さすかで異なりますが、これも普段よく使っている機能です。私とあなたを区別し、人類と宇宙を区別しています。
 よって必然的な性質のうち、変化と不変性のみが普段我々が言語を使用していて明らかではない価値観となるのです。知覚機能はより原始的な価値観であり、表出しにくいがゆえに根本的なその人の世界への態度を示していると考えられます。

S
 Sとは時空間の偶然的な側面を示しており、たまたまそうであるしかなく、かつそうでしかないものです。必然性との違いはそうなる以外はあり得なかったと直観できるかできないかの違いですが、いずれにしても必然性にしても偶然性にしても、その内部に構造や言語を挟み込める余地がなく、反実可能性を想定できないため、ある意味では宿命的ではあります。NにしてもSにしても宿命的な何かを知覚している。そのような言語でそうではなかったら?と表現することができない「それ」の中で、そうであるしかないと感じられるのがNですが、Sは本当にたまたまそうであるしかなかった、と感じられるものです。
 これは心の哲学でいうところの「クオリア」に該当します。または伝統的な哲学の用語でいうと表象に近いかもしれません。しかしこの二つの説明はどちらかというとSeの説明に近くはなりますが、イメージとしてはSとはクオリアのようなものです。対してSiはベルグソンのいう純粋持続や記憶に該当します。簡単に言うとSeが一瞬であるのに対して、Siはある一定の変容可能性をもった「幅」があります。しかし、根本的にどちらも言語的に境界線を内部に引くことができないため、そうでなかったら?と問うことは無効化されます。問うことができたとしたらそれはもはや知覚機能ではなく、判断機能になっています。
 話を戻すと、クオリアとは偶然的な知覚体験そのものを指す用語です。例えば目の前に赤いリンゴがあるとして、その赤いリンゴがなぜ”今現に感じているその赤さなのか”を説明することは原理的に不可能です。どこまで説明をさかのぼってもある波長の電磁波が視神経から視覚野にいって、言語野や運動野にいき、私は今赤い何かを感じているとその人物が発言することは全て客観的に記述することは可能です。しかし、それでもそこでその”赤さ”が説明できていないのです。これは意識のハードプロブレムと呼ばれる心の哲学の有名な問題で、そこで話題になっているのが偶然性Sなのです。

MBTIの哲学的基礎づけ(3)知覚機能①深堀

知覚機能について深堀

 知覚機能について、さらに深堀します。知覚機能は言語化以前の構造のない存在そのものに関する心理機能だと説明しました。ここで、存在そのものに対して取りうる態度は大きく分けて2つあります。それはあらかじめいうと、存在そのものは不変であるという立場=NiSeと、変化するという立場=NeSiの二種類です。

 古来からある二分法で、ギリシャ哲学のパルメニデスは世界の変化は錯覚であり、その裏には不変の実在が存在すると考え、その一方でヘラクレイトスは万物は流転し、一切不変なものはありえないと説きました。また、大きな目線で見ると西洋哲学やキリスト教は不変の実在があると考える傾向にあるのに対して、東洋思想では諸行無常を説く傾向にあります。


存在=知覚的と存在者=判断的の違い

 存在とはあらゆる言語的な内部構造に回収されえない何かであり、存在者と存在は区別されます。伝統的に存在者とはある種言語的であり、具体的な何かとその属性に関する言及の束で存在者は成立しています。言語的とは主語が述語に包摂されるという関係性の命題の網であり、これは判断機能に該当します。

 そして、その命題の網の裏や根底をどのような様態で支えているか?という言語のある意味では外の条件について考えること、つまり言語的な行為の外=条件について直観、感覚し、考えようと試みるもの(それが可能か否かは脇に置き)が存在論=知覚的なものに対応するということになります。
 

変化と不変が存在論になる理由

 変化と不変という概念は、時間と空間という概念に密接に絡み合っています。不変というのは、ある種世界の裏側に不動の箱のようなもの=空間的なものを考えて、永遠とすることで、自己同一性A=Aに対応します。また変化というのはあらゆるものがA(現在)≠A(過去)となり、自己同一性を保てず、比喩的に言うと流体的で、箱のような不同なものを措定しない価値観となります。

 これらはある種、言語間の関係性ではなく、その根本的な言語そのものの基盤や変容性に関して、言及しています。例えばこれはペンですといったときに、これという主語とペンという属性に関して一対一対応が不変的に保たれると考えるのが不変、その一対一対応が場合によっては崩れる可能性があると考えるのが変化に対応します。
 
 このような言語の対応関係以前の価値観を言語そのものを用いて表現することは、自己言及性の問題から不可能です。どのような言語的な主張を行っても、それは言語内部の網にあるのであって、原理的にその裏にある存在そのものの様態が不変なのか変化なのかを決定することができません。
 
 強調していうならば、AはBであるといったときに、本当にAはBと対応し続けるのか、または本当はその対応関係は崩れる可能性があるのか、は言語化不可能です。ゆえに、言語で表出するとしても変化と不変に関するものは二次的なものとならざるを得ません。

 このような理由から変化と不変という概念は存在論に属することが確認できると思います。また、東洋の中と西洋の中で細かい違いはあれど、その二つの間で大きな価値観の相違があるのも、このように存在論という極めて原始的なレベルでの世界把握の差異が原因となって表れているものと考えていいでしょう。
 
 このように存在の様態についてどのように考えるかという立場はその人の人生哲学や世界観に直結します。

 
 

MBTIの哲学的基礎づけ(2)心理機能全体像

心理機能 

 心理機能とはどのように世界が存在し(存在論)、どのように世界を認識するか(認識論)を決定する極めて基礎的な因子であるとここでは考えます。心理機能を列挙すると、Ti,Te,Fi,Fe,Ni,Ne,Si,Seの8つになります。ここで存在論に対応するのが心理機能の中でも知覚機能と呼ばれるNi,Ne,Si,Se、認識論に対応するのが判断機能と呼ばれるTi,Te,Fi,Feとなります。簡単に言うと我々の外界の生の情報を知覚するのが知覚機能で、それを加工するのが判断機能となっています。


知覚機能

 存在論は存在に関して問う哲学の一部門であり、具体的に存在している人や物またはその性質ではなく、その存在そのものの成立原理や様態を考えます。このような具体や性質ではない=構造を持たないものについて言及しているため、基本的には存在そのものに関しての言語化は難しいと考えられます。また、知覚機能Ni,Ne,Si,Seに関しても一般的な心理機能の説明を見る限り、構造を持っているというよりは環境または人間の内側から経験されるあいまいな知覚の束に関する記述になっています。

 よって抽象的には、知覚機能とは構造を持たないものに関する機能だということが把握できます。また、極限的には構造を持たないならば言語化することも不可能と考えられます。言語化とはある種、本来ならばリンゴとメロンを区別する必要性がなかったにもかかわらず、その境界線上で切り分けて認識することです。構造がなければそもそもあらゆる区別や境界線がないことになるので、言語化以前の世界を切り分けない情報をそれがなんであるかを判断せずに、一次的に知覚するという機能が知覚機能に該当するでしょう。


判断機能

 認識論は世界をどのように我々は認識=構造化するかに関して哲学をするものだと考えられます。私たちの外または内にあるものが本当はどう存在しているのか?を問うのが存在論だとしたら、私たちは外界の情報をどのように調理や料理をして切り分け、認識しているかを問うのが認識論です。

 認識の仕方はそれすなわちどのように世界を切り分けていくかということと直接つながるので、言語の問題になってきます。言語を用い、あらゆるものの差異を把握することで、あらゆる構造を認識しているのが人間です。よって、認識以前の知覚をどのように構造化=判断するかといったことに関する機能がMBTIの心理機能における判断機能に該当すると考えられます。


性格タイプの決定の仕方

 性格タイプとはどのように世界が存在していると感じ、どのように世界を認識=構造化しているかの組み合わせで決定すると考えます。つまり、知覚機能と判断機能の組み合わせである種のクアドラと呼ばれる性格グループを構成します。このクアドラというのは心理機能の並び順を無視して、組み合わせが同じ性格グループのことです。

 この性格グループ=クアドラには4つの性格タイプがありますが、同じクアドラに属する限り、どんなに外見上異なった振る舞いをしていたとしてもその根本的な世界に対する哲学的な立場は同一であると考えられます。このように世界に対する極めて原理的で、哲学的な立場から性格を分類するものがMBTIを哲学的に基礎づけるという解釈となります。


心理機能全体像

 以下に今後説明する心理機能の全体像を論点先取り的に示しておきます。今後詳細な心理機能ごとの説明などは行いますが、初手で全体像を示しておくのは有意義でしょう。

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知覚機能図

   必然性  偶然性
変化  Ne            Si

不変     Ni             Se

判断機能図

    有限(観測者)  無限(対象)
固有性 Fi            Te

一般性    Fe           Ti
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図式化すると上図です。以下はその対応関係を文字にしたものです。

 変化×必然性=Ne
 変化×偶然性=Si

 不変×必然性=Ni
 不変×偶然性=Se

 固有性×有限=Fi
 固有性×無限=Te

 一般性×有限=Fe
 一般性×無限=Ti

抽象的でわかりにくいかもしれませんが、今後詳細は説明しようかと思います。

MBTIの哲学的基礎づけ(1)導入

 MBTIに関して、ある性格タイプがどのような特徴を持っているかや、タイプ同士の相性、また、心理機能の意味については多くの議論がなされています。

 しかし、そもそもなぜMBTIの心理機能が8つあるのか、また、そもそも思考Tや感情Fとは一体なんなのかをゼロベースから統一的に基礎づけている議論はあまり見かけないため、気になって考えたことをまとめてみます。あくまで1個人の意見ではありますが、私なりに整合性のある形でまとめてみました。


 MBTIのルーツはユングの類型論にあり、彼が8つの心理機能という概念を考え出しました。その8つの心理機能を考え出した彼は精神科医であり、彼は科学的に立証が困難であったとしてもその心理機能の傾向はある程度の普遍性をもって、人間の行動パターンに表れているのだと考えていたのだと思います。


 そこで私は心理機能に哲学的に普遍性があると仮定した場合に、どのような展開があり得るかをここで示したいと思います。ここで哲学的に普遍性があるとは、心理機能やMBTIを単なる人間の性格や行動パターンを記述するものだと考えるのではなく、どのように世界が存在し、またその世界をどのように認識するかという形而上学的な枠組みを提供するものとして解釈するということです。


 また、そのような枠組みは基本的に脳の器質的構造や人間の具体的な器官や文化にひとまずは影響されないと考えられます。よってこの議論は実験や検証をすることが可能な科学の体をなしておらず、反証不可能な思弁的な考察となることは免れません。


 しかし、一度原理的に世界が科学的にどのようになっているかということを脇に置き、人間の性格類型論に類するものを哲学的に考えることで、新たな解釈や方法論を提供することはできると考えます。
 
 ユングの心理機能について哲学的に迫った考察をしている文献はあまり見かけたことがないので、上記のモチベーションの元、考えた結果をブログに書きたいと思います。

Bioshok INFJ 自己紹介

 MBTIやエニアグラムといった性格類型論に関すること、哲学的なテーマ、日常考えていて思いついたアイディアに関して主に投稿します。

私はINFJと呼ばれるMBTIタイプで、エニアグラムは5w6 トライタイプ514だと考えられます。特にNiと呼ばれる心理機能が強いと思われます。

その性格特性上、少ない情報から抽象的な結論を導き出すことが多くなると考えられます。よって客観的なデータとしてではなく、あくまで個人の一意見として見ていただけると幸いです。

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